なぜ、要石は地震を鎮める石なのか?

地震被害

要石を知っていますか。要石は地震を鎮める石とされ、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮、三重県伊賀市の大村神社、宮城県加美町の鹿島神社にあります。

鹿島神宮の要石は凹形、香取神宮は凸形で、言い伝えによると地震を起こす大鯰(なまず)の頭(鹿島)と尾(香取)を押さえているとされています。

なぜ、要石は地震を鎮める石なのか?をみてみましょう。

なぜ、要石は地震を鎮める石なのか?

香取神宮小史によれば、鹿島神宮の武甕槌(タケミカヅチ)神、香取神宮の経津主(フツヌシ)神の二柱の大神は天照大神の大命を受け、葦原中津国平定(あしはらのなかつくにへいてい)において香取ヶ浦付近に至った。しかし、ここは地震が頻発する地域で人々はいたく恐れていまいた。これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒れ騒いでいるためだと言われていました。

ちなみに日本で一番古い地震の記録は、 『日本書紀』巻13にある416年7月に、遠飛鳥京(とおつあすかのみや)付近で起きた允恭地震です。また、日本神話や伝説は日本の自然現象・自然災害をモチーフに描写されているという説があります。

そこで香取と鹿島の大神は地中に深く石棒をさし込み、鯰魚(なまず)の頭と尾を刺し通し、地震を鎮めたと伝わっています。この石棒が要石と呼ばれています。

地中に深く石棒を刺す
図:国際日本文化研究センター「鯰絵コレクション」より

このような「鯰絵(なまずえ)」は、安政の大地震後(1855年)、よく描かれた絵の一つです。神話・伝承では、地震は地中の鯰が動くことで起こると信じられていたので、安政地震の後も、鯰を素材とした戯画「鯰絵」が大量に出版され、それらは多種多様で、地震後の世相を風刺したものでした。

鯰と要石
[鯰と要石(なまずとかなめいし)]
 [安政2年(1855)]刊 

地震のあった10月は、神無月(かんなづき)とも呼ばれ、全国の神々が出雲に集まるため不在となる月です。茨城県鹿島神宮境内の地震を鎮めるとされた要石に寄りかかっているのは、留守居役の恵比寿と推察され、その恵比寿が居眠りした間に大鯰が暴れたということを表しているようです。日頃、要石で鯰を押さえている鹿島大明神が、「早く行ってかたをつけなくては」と馬を急がせている様子も描かれています。

鯰と要石(なまずとかなめいし)]
 [安政2年(1855)]刊 

鹿島神宮と香取神宮の要石は地表に出ている部分はほんの少し(高さ15cm、直径40cm)で、地下の部分が非常に大きく、抜くことができないと言われています。

鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしており、鹿島神宮と香取神宮の要石は地中でつながっているとも言われています。

要石
写真:「鹿島神宮の要石(かなめいし)の謎

地震の原因は鯰(なまず)?

これらのように要石が地震を起こす巨大な「鯰」を抑えているとする伝承がありますが、本来は「龍」や「地震蟲(むし)」と考えられていたようです。

例えば、地震と鹿島神宮の要石の関連を示した寛永元年(1624)の『大日本国地震之図』では、鯰ではなく龍が描かれています。

当時は、地底に潜む超巨大な龍が地震をもたらし、要石はその龍の頭部と尾部を武甕槌命で押さえていると考えられていました。

また、鎌倉時代の伊勢暦には地震蟲(むし)の想像図が載っていて、頭が東で尾が西を向いており、5畿7道を背の上に乗せ、鹿島大明神が要石で頭部を抑えるさまがあります。

写真:「鹿島神宮の要石(かなめいし)の謎

同じく、東大地震研究所が所蔵する建久年間(1190~1199年)の暦では、日本を取り巻く生物は「地震虫」と名づけられています。

一方で、地震と鯰を関連づけた最古の記録は、1586年天正地震で被災体験した豊臣秀吉だという説があります。

大津の坂本城で大地震に遭遇した秀吉は、琵琶湖の湖面で鯰が飛び跳ねる様を観察し、地震発生は鯰が原因だと考えたそうです。ここから地震を起こすものが鯰となり、江戸時代以降広く知れ渡るようになったと考えられています。

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